講話の要点

  • 救急・在宅医療の現場と家族の看取りから、「命の決断」に潜む“良かれと思う独善”への自戒を学んだ。
  • 単独登山でペースを落とすと景色も心も変わり、苛立ちは消えて行動(ゴミ拾い)に変わった=スピードが価値観を歪める。
  • 学生期の旅・NGOとの出会い、被災地支援や地域拠点づくりを通じて、「偶然の再会」やご縁を“意味づける力”の大切さを実感。
  • 夫婦・家族との関係は永遠の課題。仕事だけでは埋まらない“見えないコミュニケーション”を磨く必要。
  • 倫理に出会い、「譲れないものは譲らない/どっちでもいいことは譲る」というバランス感覚と、解釈を変える力が幸福をひらく鍵。

同じ出来事でも、物語は人の数だけ

朝、電車が止まった。
ある人は「最悪だ。今日は台無し」とつぶやき、肩を落とす。
別の人は「メール一本で段取りを変えよう。ついでに資料を見直せる」と手帳を開く。
起きていることは同じなのに、心に残る一日はまるで別物になる。

私たちは出来事そのものより、「どう名づけるか」で一日を生きている。雨を「邪魔」と取れば予定は濁る。雨を「洗い流す時間」と取れば、歩幅は自然とゆるむ。上司の一言も同じだ。「否定」と受け取れば身がすくむ。「修正指示」と受け取れば、手が動き出す。現実は一つ、物語は複数。人生の質は、この“名づけ”の精度で静かに分かれていく。

名づけは癖だ。気がつかないうちに、私たちは速く、雑に、決めつける。だから、ちょっとした“間”が効く。たとえば渋滞に捕まったとき、深呼吸して一つだけ問いを変える——「これは不運か?」ではなく「今ここでできる小さな価値は?」。電話一本、メモの整理、誰かへの感謝の文章。行動が生まれた瞬間、出来事のラベルが貼り替わり、同じ景色が“味方”に変わる。

もう一つのコツは、他者の目を借りることだ。同じプロジェクトの“トラブル”も、営業の目には「顧客理解の素材」、経理の目には「コストの見える化」、新人の目には「初めて学べる場」に映る。視点を混ぜると、感情の濁りが沈み、選択肢が増える。独りで背負うときほど、世界は単色になる。

そして、速度だ。速い判断は便利だが、意味づけは遅いほうがうまくいく。夜をまたいで同じ出来事を見ると、怒りの温度が下がり、輪郭が出る。昨日の「失礼な一言」が、今日は「忙しさゆえの短さ」に見えることがある。出来事は変わらない。変わるのは、こちらのピントだ。

結局のところ、私たちが磨きたいのは「良いことだけを起こす力」ではない。起きたことに良い名前をつけ直す力だ。トラブルを“練習”に、偶然を“ご縁”に、遅延を“余白”に。名前が変わると、行動が変わり、結果が少しずつ変わる。これが、同じ経験でも人生の手触りが違ってくる理由だ。

今日からできるのは小さなことばかりだ。
ひとつ、出来事を前に「何をいちばん大事にしたい?」と自分に聞く。
ひとつ、結論を一晩だけ寝かせる。
ひとつ、誰かに「あなたにはどう見える?」と尋ねる。

それだけで、同じ世界が、少しだけやさしく見えてくる。人生の質は、出来事の数ではなく、名づけ直しの回数で上がっていくのだと思った講話だった。